~~~討伐条件~~~
討伐不能。
12月22日 【⠀16時20分⠀】。
冬の季節。黄昏に差し掛かった水色の空、遥か上空にて『巨大な穴』を発見した。
無人探査機6、有人探査機4機を送り込んだが いずれも帰還は確認出来ず。如何なる電磁波も機器も【ERRORレート】によって阻害。
現時点で分かっていることは
この穴が出現するほんの少し前
【16時19分】に『推定マグニチュード9・0』が起こった事だ。
その先に何があるか、誰にも分からない。
~~~調査報酬~~~
Version.1:関係者の侵蝕を1上昇させる
Version.2:関係者の追憶を1上昇させる
Version.3:関係者の侵蝕を1上昇させる
Version.4:関係者の追憶を1上昇させる
Version.5:研究データ【1■2■】解放
【報告書】Version.1 01/12
【調査員】皇帝
【記録員】無所属 Serena Elli Virtanen
__調査報告________
「お前、独りか」
半袖の奥に鳥のタトューがチラつく、青水晶のような酷い顔色の女が飲食店の裏の段ボールでノビてた俺にそう言って、手を差し出した日付も知らない3月の朝。行く当てもなく、女神が迎えに来たとさえ信じられた俺は震える左手で、その手を掴んだ。
深夜を超えてもはや朝に近い4時20分ごろ。
「いやぁ、なんだか恥ずかしいですね」
黒のバンで薬を配達してる最中に、助手席で帽子を脱いだセレナさんがふいに昔話なんて初めたから、俺は男の癖に頬なんかを染めて、そんなことしか言えなかった訳で。
「はっはっは!昔のお前は野良猫みたいにやんちゃだったからなぁ」
し、しつこい……。かれこれ30分は俺の昔話をしてやがる…。
「……あんまり言うと次のパーキングエリア飛ばしますよ?」
しかし俺には勇気がない。控えめで遠回しな抗議しかできないが。
チラッと、助手席を見る。
セレナさんが凍てつかんばかり眼力で俺を睨んでいる。
「ひっ!」
「それは困るな。帝、私は頻尿なんだ」
ごくり、唾を飲み込む。冷や汗が背中を這うのを感じる。
この人の”威圧”感は本当に、マジで並みじゃない。
「しっ、知ってますよ。冗談です。つまらなかったですよね、本当にすんません」
「おいおい、そんなに怒ってないから謝るな」
(いいやっ!絶対に怒ってるね!間違いない!何年の付き合いだと思ってるんですか!)
つまらない冗談を言ったことを後悔して、チラチラとセレナさんの顔色を伺いながら10分くらい走った頃。隣から『クルッポー』と言う鳩の通知音が聞こえた。
「帝、2km先で検問がある」
「えぇ、やばいじゃないっすか!?」
「担当は石丸だ」
「なんだ平気じゃないですか」
丸山というのは俺が常日頃から賄賂を渡し、シャバ代を払わねえ不届者がブツを捌いてる所を摘発させては手柄を上げさせたりして贔屓にしてる警官のことだ。
そいつが担当している案件は、クスリでもケンカでも、まぁ大体見逃される。犬の散歩中にクソを拾わなかったときくらいか、注意されたのは。ただ、そいつは大の差別主義者としても有名な奴だ。家のない長耳に犬をけしかけては怯える様子を面白がっているらしい。俺が言えた立場じゃないが、人間のクズみたいな奴だ。
「セレナさん、帽子」
インターチェンジを抜け、検問は大体500mの距離に迫って。
「もうかぶってる」
横付けされたパトカーが見えて来て、減速する。柵の手前で止まり、窓を開ける。若い男の警察官が近づいて来たが、「こいつは俺の担当だ」後ろから丸山がそいつおっぱらって、来た。
「やぁ皇さん、今日は彼女さんとデートですか」
丸山は窓に両肘をかけて「ちょっと助手席の人の顔が見えないなぁ……帽子取ってもらえるかな」ニヤついた顔でそう言うから、俺は「お前は友達サービスって言葉を知らねえのかよ」ため息ついて懐から万札を挟んだ白紙を渡す。「許可書です」「はい、どうも」普通検問って免許の提示求めて終わりじゃねぇのかよ、って話だが。「ここだけの話、俺の犬めちゃ賢いんだよ。お前の車の時だけはブツがあっても鳴かねえんだ」
知らねえよ。
「へっ、へぇ。俺って犬に好かれるからなぁ…」んなこと言って、目で”邪魔だからさっさと失せろ”と訴える。「……はい、じゃあもう行って良いよ」丸山は小馬鹿にしたような顔でそう言って、窓から両肘を離した。徐行で柵の間を抜けて、セレナさんの顔は見られていなかったはずだった。
「日を追うごとにガメつくなりやがって」
ハンドルを握りながらそう言うと、「ふふっ」セレナさんの小さな笑い声が聞こえた。
「……何ですか」
「ふふっ、ははっ、いやっ、なんでもないよっ」
何がおかしいんだか。
まぁ、ヤクザの癖に腕に鳩のタトュー入れてたり、俺みたいな野良猫を拾って来て弟にするような人なんだから、今更か。
「もうすぐ着きますね」
風景に感慨を抱いたことなどないが、フロントガラスの向こう、遠くに見える山々から色づいていく、赤みがかった深青色の空は少し綺麗だと思った。
その風景の中に、穴が空いていた。朝日は山の向こうにあるはずなのに、空に空いた穴は光を照射している。
「………ちょっと、セレナさん、あれ変じゃないですか」
「なんだ、どうした」
セレナさんがリクライニングシートを上げて、外を見ようとして「あれは……」
突如、爆発したような振動。「なっ!?」
ハンドルが取られた。
ブレーキを踏んだ。
辺りそこら中全体が振動して、後ろに積んである段ボール箱がガタガタ崩れ落ちる音がした。
外から何かが倒れる音や、崩壊する音が聞こえる。「じ、地震!?普通じゃない揺れだぞ!?」その時の俺は子供みたいに喚き散らして、セレナさんは地震なんてないみたいに涼しい顔で、顎に手を当てて何かを考えているみたいだった。
「やっ、やばいですよっ、これまじでっ!」
揺れは時間経過と共に収まるどころか強くなっていき、俺はハンドルにしがみ付いて頭を打たないようにするのが精一杯で。
「うぉぉおおおおおお」
「まったく暑っ苦しい男だな、お前は」
人の真価が問われるのは、考える暇もないくらい逼迫した、生命の危機に何をするかなのだと思う。つまり、そんな時に叫ぶことしか出来なかった俺がセレナさんに呆れられたとしても、それは仕方のない話だった。
手首に巻いた黒のG-SHOCKを見ると、時間は5時20分。無限に続いたかのように思えた揺れは、1分の間の出来事だった。僅か1分とは言わない。俺にとっては人生で最も長い1分だったからだ。隣で優雅に思考しているセレナさんには分からない気持ちだろうけど。(憧れちゃうよな)ぼーっと、その横顔を眺めていたら、ふいにセレナさんが現実世界に戻って来て、俺の方を見た。「少し行くところが出来た」いつにもなく真剣な表情だ。「わかりました。どこで下ろしたら…」「私はここで降りる」「えぇ?」セレナさんは俺が何を質問したら良いのか思いつくまで待ってくれなくて、気がつい時には”バタンッ!”という音と共に行ってしまった。頭の回転の鈍い俺には考える隙も与えない高速プレイに「前に言ってた”カミサマ”ってやつですか…」俺はそう呟くことしか叶わない。なんにせよ、第一に、とりあえず、ブツを安全に隠せる場所まで運ぶ必要があった。
幸運にも近くで生き残っていたお得意の地下駐車場に車を止めることは出来たが。
「この世に、人の心をもったやつぁおらんのかぁ〜〜!?」
燃える家家、へし折れた電柱、よく分かんないことを叫ぶ爺さん、ガビガビに割れた地面。地上の様子は目を見張る凄惨さで、渋滞と建物の瓦礫の甲斐もあり車による移動は不可能に近かった。空を見ると、穴が空いていた。(さっきから、気になるけど…)今回の地震とアレが無関係ではないように思えた。当然、それは妄想じみた根拠もない思いつきで、正しくない可能性の方が高いんだが。”ピコン!”上着に入れていたスマホから通知音がした。そこには白いハトのアイコンと『00:00 萩森自然公園 にて集合』の文字。「いつも急なんですから…」『配達はどうします』返信する。秒で”既読”の表示。『中止だ』納期までに届けないと俺の命がない気がしたが、まぁ、セレナさんが言うのだから良いだろう。あの人には予言めいた感性がある。『わかりました』
とはいえ、俺には20時間もの時間を何かに費やす予定もなかったので、電波の届く地上に出て、現状を確認するためにスマホでニュースを眺めるのは当然だった。
『震源地は本州の真下。不自然すぎる地震』
『[悲報]世界、バグる “>>1 空に穴空いてるんだが”』
『超大型地震、南海トラフではない』
『(こわ)めっwwちゃwww揺れてるwwwwww草wwwww(い)』『気象庁「現在津波は確認されていない」』
『人工地震!!アメリカによる新兵器実験がついに開始!!』
『震災の恐怖、再び』
『エルフ死ね』
このくだらないノイズを全体的にまとめると、今回の地震は大変不自然なものらしい。それに、あの空の穴に限っては不自然さを隠すそぶりすらない。「はぁ……」しかし、どこの記事を読めども、内容は同じことばかり。権威のあるところは『よく分からんがまだ大丈夫』リベラルは『政府の対応が遅い』キチガイは『アメリカと韓国による人工地震兵器のせいだ!』と言う調子で、どこにも役に立ちそうな情報はなく。取り敢えず腹が減ったんでコンビニに行くことにした。
「げっ……」
そこには、長蛇の列。どこにこんなに人が居たんだって位の列で、通りの店は全て人で埋まっていた。
「まじかよ……」在庫のある店を探し求め、しばらく歩いて、というかこんなに歩くのは半年ぶりだってくらいで、早くもふくらはぎに痛みを感じ始めた頃、何やらやたらと人気のない雑貨店を見つけた。そもそも営業していないのかと思ったが、店員は中で忙しく動いており、どうもそんなふうにも思えなかった。深夜に倉庫を出てからから一食もしてない身としては、街頭に群がるがの如くそこへ向かうしかなかった。中へ入ると、以前そこは普通の店のようで、カップラーメンや水などが在庫こそ少ないが、店先に並んでいた。「……ほぉ」しかしどうも価格がおかしい。
『カップヌードル 2000円』『水500ml 800円』最初は空の穴のせいでパラレルワールドに転移したのかとも疑ったが、実際には噂に聞く被災ぼったくり商法という奴だった。「お願いします」だがヤクの売人を舐めるなよ。誰もやりたがらない仕事は給料が良いんだよ。俺とセレナさんの分のカップヌードル2つ(4000円)と水1.5L(2000円)を購入。ついでにタバコ(6000円)を2箱と、レジ袋も五十円で買ってやった。店主の親父は終始ニヤニヤしていたが、客が来ないのは価格よりも(このキモい表情が原因なんじゃないか?)。店員が幾分か可愛い人だったなら、キャバクラに来たと思って散財する客もいるだろうに、と思うのは俺だけか。俺だけだろうな。
結局、あれからお湯も買えと言うから給湯器ごと買って、カップヌードルを何杯もお代わりして腹を膨らませた午前の8時12分。仕事ばかりで金を使う暇もなかった俺はまったく不健全な満足感と共にまだ営業しているネットカフェの個室で横たわっていた。
(うわぁ……懐かし…)感動してしまうほど狭苦しい部屋と、『電力不足により現在PCをご利用頂くことは出来ません』と付箋を貼られたPC。もはやネットカウェの”ネット”は何なんだと。しかしこうしていると、ホームレス時代前半期を思い出す。毎日、出禁を食らっては新しい寝床を探し求める日々。後半期なんて金が尽きて野良猫より酷い生活だった。今まで”もうあの頃には絶対に戻りたくない”と全力を尽くしてきたが、まさかこんな経緯でまた使うことになるとは。(セレナさんが拾ってくれなかったら、どうなってたんだろうな……)体を丸めて、コートを掛け布団代わりにして。夜通し運転して、3時間も歩かされて、流石に……もう疲れた。眠る。
ゴトッ………ゴサッ……「…………んぁ」何か、物音がして、目を開くと、ガキが居た。(何で…俺の部屋に子供がいるんだ…?)まだ頭がぼーっとしてて、喉も乾くし、頭いてぇし、胸が苦しいし。もしかしたら若くして生活習慣病のリスクがあんのかもしれないと最近思いは始めていた身としては結構洒落にならないことだったりもして、何にせよ、おれはこのガキが何なのか知りたい。「……なぁ」俺がぼそっと言うと「……あっ」ガキはこの世の終わりみたいな顔をしてこちらを見た。帽子から、尖った耳がはみ出ている。ルクレルク人か。
「あ……あの、すみませんっ、本当に、ごめんなさいっ、わたし、お腹がすいてて…っ…こっ、ころさないでくださいっ…」なるほど、このガキはヤクザの金とカップ麺を盗もうとしたらしい。ガキは酷く怯えてる。怯えるくらいならやるなと言うやつがいるが、この手の事はそんなトンチ程度では解決しない。(見た目は小汚ねえし、臭えし、ホームレス時代の俺みたいなカピカピの髪だから男だか女だかも分からねえ……)ただ一人称は”私”だから、一応俺は女児を相手にする紳士として語りかける。「……じゃぁ、給湯器にお湯入れてくるから、お前ここで待ってろ」そう言って、セレナさんに差し入れする分のカップ麺ひとつ持って部屋を出た。あの人のことだから、ここで何もせずに公園に行った方がよほど俺をボコボコにしそうだと思ったからだ。なんか、さっきよりも人が増えていて、受付前の床にまで毛布が敷かれ、人で溢れていた。
(ここの店長は善良な人らしい)お湯も毛布のレンタルも無料だった。最も、常時であれば当たり前のサービスに、ここまで感謝することになろうとは、ここにいる大多数の人は考えもしなかっただろう。(——ジョボボボボボ)ジョボボボボっていうのはなんか汚い音に聞こえてくるな。(チョロチョロチョロ…くらいか?)いやぁ、そんなんでもない。さっきから乾燥面にぶち当たって散るお湯が俺の手に掛かりまくってるし、そんなお上品なもんじゃないな。「……おし」蓋止めシールを貼って、部屋に戻る。「あの、すみません、もしよかったら、それを譲っていただけませんか……?」後ろから声をかけられた「え?」振り向いた先には、黒い髪を真っ直ぐに伸ばした若い女。なぜか若干前屈みで立っている。肌色は良く、服もあまり汚れていない。黒いタイツに裸足だから、多分ハイヒールを履いていたのか。
「あぁ……これ俺のじゃないんです」セレナさんのです。「あぁ、そうなんですね、それじゃ」俺が断ると、女はびっくりするほどそっけない態度で去っていった。また、別の客に声をかけている(なるほどなぁ……)ゴリラの生態ぐらいにしか興味がなかった俺にとっては、こういう状況で発揮される人間の工夫には感心せざるおえない部分がある。(やっぱ寝ると気分が良いな)心なしか頭の回転が良い気がした。気がした。勘違いの可能性もある。個室のドアを開くと、くっせぇ臭いがして、つまりそれはまだガキがいると言うことだった。「はい、どうぞ」そう言って割り箸とカップ麺を渡す。「え…っ…えっ?」ガキは困惑した様子で、割り箸を取って、恐る恐る、一本、麺を啜る。「っ!」そしてすぐに割り箸で全部掴んで、勢いよく、俺より早いペースで食い始めた。まさに「あぁ」という間に食い終えた。『あぁ、それ二千円のカップ麺だから味わって食えよ』と言う間も無く
結局、部屋がくせぇからと言う理由でガキに部屋と現金を渡し、俺は寒空の下に放逐され、時計は午後5時21分を回っていた。あれはいつか今日のことをセレナさんに悟られた時にボコボコにされたくないからしたことであって、そこに俺の善意だとかそう言う感情は絡んでいないってことだ。とか言い訳がましいことを考えながら歩いていた訳だが、まぁ、なんだ。結局……良い事がしたかっただけだ。
「暇」暇………………暇。暇すぎる。かれこれあちこちを徘徊しては、ほう、被災地とはこういうものかと好奇心を持っていたのに、毎回同じようなことを繰り返されては流石に飽きる。ぼったくり商法、地震はルクレルク人のせいだと言って発狂する集団、店の前の行列。変化があったのは、軍隊の車両が既に何台が到着して、救助活動や炊き出しをしていたことくらいか。こんなに暇ならもう少しあのガキと話して時間を潰せばよかったかと僅かばかり後悔した。そして今更あのネカフェに戻るのは俺の美学に反する。G-SHOCKを見ると、時刻は21:22。約束の00:00は遠いような近いような。相変わらず空には穴が空いていて、さっきから戦闘機がビュンビュン空を飛んでいる。ネットは変化なし。というよりは内容の質が低すぎる余り、これに時間を消費することに屈辱さえ感じたので見ていない。
(あーーーーーーーー!!!!)暇!暇とは最も人を精神的に追い詰める術だろう!!時計を見る。時間は00:03「やばい、もう行かなきゃ」「え〜?もう行っちゃうの〜?」
「もっと遊ぼうよぉ〜」俺に群がるこの女どもはさっきまで店先の行列に並んでいた客のうちの二人、先ほど呟系SNSで『いま被災地にいます!RTしてくれた方には飯奢ります!』という、クソ成金偽善者のような文言を垂れたところ、『不謹慎だぞ!死ね!』というリプライを被災者である俺に返されつつも、八人近くが集まり、この二人はしぶとく、まだ俺から集ろうとする”グリとグラ”よろしく”ノミとダニ”であるわけで。俺の両腕と財布にしがみつくこいつらを引き連れて、すれ違う人々に白い目で見られながら、己の軽率な行いを深く反省していた。「マジで行かなきゃ殺されるんで」俺はそう言って、腕を振り解いて”萩森自然公園”まで全力で走る。今日という日は、歩いて、走って、そればかりだ。地震なんてのは最悪だ。
湿っぽい、0時の寂れた公園。今日1日であらゆる精神的栄養を搾り取られた俺は新鮮な緑の空気が吸えるここが集合場所でよかったと安堵しながら、広いわりに明け方前の深夜ともなると人気のまったくない道をしばらく歩いていた。ふと、遠くから、微かに犬の声が聞こえた。『ヴグゥゥゥゥウウ!!』唸り声だった。(なんだ、喧嘩か?)恐れと好奇心から、俺はそこに近づいてしまった。自分は犬に好かれやすいと信じていたからだ。最初に見たのは警官の背中。(やらかした)三人いた。三人とも手綱を握っていて、その先にはいかにも獰猛そうな犬の輪郭だけが暗闇の中に見えた。
(やばいぞぉ…どうする、なんて言い訳したら)犬は何かに夢中で、警官は俺に気づく様子もなく、みんな犬の方を見て笑っている。(なんだ?)鼻を刺す嗅いだことのない不快な臭い。黒い雲が晴れて、月光が差し込む。月明かりの元には、自転車のワイヤーロック。池の鉄柵に首を繋がれているのは、左肩に、平和の象徴、鳩のタトュー(…………セレナさん?)衣服は全て引き裂かれ、肋骨が露出し、右腕がなく、犬は、犬は口に咥えた長いものを奪い合っていた。「あ……あぁ…」「誰だ!」
警官のうち一人が俺に気づいて、俺に銃を向ける。「なんだ、お前か」そいつはいつも贔屓にしていた警官、丸山だった。目をぱっちり開け、口端を上げえくぼを作り、目配せをし、足で合図をする、小太りの悪魔。「はっ……!はっ……!はぁっ……!」息ができなかった。声も出せず、何をいうべきかも分からなった。
「おい、見られたぞ。どうするんだ」警官の一人が言った。「こいつも犬に食わせよう」。「……え?」俺は情けないことに、未だに状況を受け入れていなかった。夢だとさえ。最初の警官が「まぁ、待て」そう言って、「あれを見ろ」地面に落ちてる黒いものを指差した。「俺たちも犬のクソの世話に焼いててな。これを処分したら見逃してやる」そんなことを言った。「しょ…処分?」俺はそう聞いてしまった。
「ほら、投げろよ」男はまた指を指した。セレナさんだったものの方に、指を指し、そう言った。(…………は?)嘘だろ。なんでこんなことする必要があるんだよ「やるのか、やらないのか」「まさか耳長に同情してるわけじゃないよな」そう言って、二人の警官はゆっくり、俺に近づいてくる。犬の顔がこちらを向く。「はぁっ…!はぁっ…!」呼吸が荒くなって、胸が苦しくなった。その時の俺には、何が何だか分からなくなって。「おい、もう殺そうぜ」その一言を聞いて「う……うあああああああ!!!」クソを投げた。「ストライーク!」「顔にいったなぁ〜」「遅っえなぁ50kmも出てねえよ」
勇気がなかった。
その後のことは覚えていない。気がついたら、薄汚い、路地で寝ていた。
叫んだか、逃げ出したか、放心してたのか。何にせよ生きてるってことは、悪魔に立ち向かわなかったってことを証明している。「……くっ、うぅぅぅぁぁぁ」建物の間に見える満月から光が差し込む。俺を嘲笑う、侮蔑の光が。『お前、独りか』『はっはっは!昔のお前は野良猫みたいにやんちゃだったからなぁ』「うっ…ぷ…おえぇぇぇ……」喉を焼く胃酸。「はぁ………はぁ……」『「うぁああああああああ!!!!」やはり俺は昔から何を変わっていなく、まるで弱いままで叫ぶことしかできずに、しばらくそうして情けなくうずくまって。ふと空を見上げる。空には、穴。
帝、お前は今まであらゆる問題から逃避してきたね。見てみぬフリをしてきた。これは今までのお前の生き様が引き起こした事なんだよ、帝。「……誰だっ!?どこにいる!?」私は穴だ。小さい頃から、お前をずっと見守っていた。悲しいね、自分の弱さを乗り越えるのは困難なことだから。「………はぁ?」お前が全てのルクレルク人を救済するんだ。誰も手を差し伸べない相手を、お前だけが救うことができる。私は空の穴、お前の復讐に唯一出資する者。
帝、もうすぐお前を尋ねる者が来るだろうだろう。お前が為すべきことは、彼らが教えてくれるだろう。「……あの悪魔を…殺せるのか…?」…………君がそれを望むなら、私は力を与えよう。お前は選ばれたのだ、皇 帝。
「…………お前は神なのか?」
……しかし返事はない。声は聞こえなくなった。月明かりは雲に隠れ、穴は消えていた。だけど、十分だ。俺はこの時、俺は自分の命を何に使うべきか理解した。
今まで、無意味に消費してきた時間を、大切なものを、どうやって、償えばいいのか。
本当に死ぬべきは誰だったのか。